未来はいつだって新たなときめきと出会いの場

インターネット、君の名は希望

好きを肯定すること・されること

 

「愛するものを、そのまま愛し続けて大丈夫。」

 

先日とある授業で尊敬する教授から言われた言葉にときめきを感じたから、書き残しておく。

 

このときは、出版の未来が見えない話をしていた。

うーん……それは痛いほどわかるから私も紙を捨ててインターネットの世界を選んだけど、それでも文芸・ジャーナリズム論系にいて、作家や編集者になりたくて、批評で有名なあなたの演習をとっているのに、好きなものの暗い話をされたら困っちゃうよ、という本音。未来に希望を感じたい。

 

それでも、教授は暗い表情をしている私たちを理解してくれていて、この一言を言ってくれた。

それだけでものすごく安心感を覚えた。

ああ、紙の本はなくならないんだな、この人がいる限り大丈夫だな。

愛はどんな力よりも強いよね。

 

 

そして同時に、とある言葉を思い出した。

 

「君たちの好きを肯定しに来ました、DJダイノジです。」

 

 

先月氣志團万博に行ったときに叫ばれていて、ときめきを覚えた言葉だ。

 

 

好きを「肯定する」こと、愛と熱量と大きな器が必要な気がする。

誰が何百人、何千人の好きを肯定して受け止めきれるだろう?

 

そして「肯定される」こと、多趣味化と繋がりたい欲求に満ち溢れるこの時代に合っているなと感じた。

氣志團万博はイロモノが多いフェスだったからこそ尚更。

この感情を言語化したいけど、承認欲求、なんて陳腐な言葉で終わらせたくないね。承認欲求という単語がマイナスの意味で使われている現状、とても悲しい。

 

 

ミーハーな私は好きが多いしいろんな好きの現場に顔を出しているから、趣味の肩身の狭さ、世間からの風当たりの強さも痛いほどわかる。2次元、BL、そしてアイドル……

好きでいて何が悪いんだろうか。サブカルチャーは悪なのか?

 

そして、好きに理由は必要なんだろうか。

ときめきを感じる、好きになることに理由なんて必要ないと思う。

だから「好きなものは○○です」と言って、必ず「何故?」と聞かれる就活の面接が大嫌いだった。

それはもちろん好きな部分はあるけれど、好きを言語化することって想像以上に難しい。

感情的に生きることはダメなのかなあ。生きづらい世の中だ。

 

 

今日も好きを増やして、肯定して、肯定されて生きるぞ。